どこまでも散歩道〜志治美世子ウェブサイト



いつでも会えるよね、節子さん(6)

その日、私は帰る道すがら、通り過ぎる人のなかで、自分だけがすっぽりと大きな透明なガラス箱のなかに入っているような、そんな気がしていた。足が宙を踏んでいるようだった。何もかもが、私と別の世界の存在のようだった。

商店街の照明と行き交う人の群が、まるで熱帯魚のようだった。私は見えない水の水底を歩いていた。

私は刻々と節子さんを失いつつある自分を感じ、そしてそのことに怯えていた。そんなことはあるはずがない。けれど、そう思いながら、それが真実であることもわかっていた。

「絶対に覚悟したりしない」

節子さんにそういった自分の言葉を、私は責め続けた。

うそつき、うそつき、うそつき・・・。

それから私は二度、意識のない節子さんを訪ね、そしてしばらく節子さんの手を握ったり、頬に触れたりしながら、綾子さんととりとめのない話をしては、帰っていった。せめていつまでも、こんな時間が続くことを願いながら。

三度目に節子さんを訪ねようとしたとき、私は萌子さんから、節子さんがすでに集中治療室に入ったことを知らされた。

節子さんが亡くなられたその日の夜、私の携帯メールに、思いがけず綾子さんご本人から、節子さんの訃報をいただいた。その時私は、すでに大混乱だったであろうご家族が、私ごときを忘れないでくださったことに感謝した。

しかし私は数日経って、思いいたったのだった。もし、あの時、「お別れさせていただけますか?」とお願いしたら、どうたったのだろう、と。もしかしたら、もしかしたら、の気持ちにぴったりと張り付いた、福島からすぐに帰京しなかった、という後悔は、波のようにいまでも私の胸に押し寄せ、静まることがない。

あの日、もし私がすぐに東京に帰っていたら、もしかしたら、もしかしたら・・・、と。

節子さんが逝って、一カ月が経った9月13日、この日に届くように、私はその前日、近所の花屋で花を選んでいた。

吾亦紅に、紫のスターチス、秋らしく薄も入れて、花はピンクのりんどう・・・。花束もカードも、すべて節子さんが見たときに「わぁ、きれい」と喜んでくれそうなものを選んだ。

きれいなものが、大好きだったね。楽しいことに夢中だったね。

「節子さん いつでも会えるよね」

私は、それだけを花束に添えるカードに書いた。

私の視線の向こうに、高知の雄大な太平洋を見つめる節子さんが、今も座っている。

(高知がん患者会「一喜会」会報へ寄稿したものです)


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