どこまでも散歩道〜志治美世子ウェブサイト



いつでも会えるよね、節子さん(3)

ある知り合いに誘われて出かけた、銀座の小さな画廊で開かれていたインドシルクの展示品のなかに、私は桜を思わせる紅色のスカーフを見つけた。大判のタッサーシルクのそのスカーフは、節子さんと一緒に見ることができなかった円山公園の桜に、いかにもふさわしいように思え、値段も手ごろだったことから、私は節子さんへのプレゼントにすることを決めた。

数日後、節子さんを訪れ、病室で寝ているその体の上にふわりとそのスカーフを広げると、節子さんは

「わぁ、きれい。私、こういうの、大好き!」

と、華やいだ声を上げた。まるでシルクの手触りを愛おしみながら味わっているように、私には見えた。

節子さんはそのスカーフを、直後に控えていた俵萌子さんの主宰する患者会のイベントに、ゲスト出演するときにしていこう、と言ってくれた。そして、いかにも嬉しそうに言った。

「志治さんて、本当に変な人・・・」

節子さんはよほど私が「変な人」であることが気に入ったらしく、その後も病室でたまたま鉢合わせした初対面の方に、

「こちら、志治さん。あのね、とっても変な人なの」

などと紹介されたこともあった。そうか、私の100倍くらい多くの出会いを知り、多くの関係を持っている節子さんがそういうのだから、きっと私は本当に「変な人」なのかもしれない・・・。私は心密かに、そう思った。

俵萌子さんの「1、2の3で温泉に入る会」の総会の日、私は昼前に聖路加国際病院の節子さんの病室にいた。これから搬送車で、会場である両国の東京江戸博物館に向かう節子さんに付き添うためだった。

座ることのできない節子さんの体を支えるため、いくつものクッションが用意されていた。飲み物にストロー、靴代わりのソックスカバー、携帯用簡易トイレ、いくつもの持ち物を確認し、節子さんの娘さんの綾子さんとともに、私はストレッチャーで運ばれる節子さんの搬送車に乗り込んだ。

会場の裏口から舞台の下までぐるぐると細長い廊下を通り、節子さんはせり上がり式のリフトで幕の下りている壇上中央へと運ばれた。

萌子さんは、そんな節子さんの姿に、涙を浮かべながら繰り返した。

「よく来られたね。よかったね。嬉しいよ、ありがとう」

病室のベッドから節子さんを持ち上げたシーツのまま、再び持ち上げられた節子さんは、ストレッチャーからステージのソファへと降ろされた。両サイドの肘掛けと背中部分をすべて、少しでも痛みが少ないようにクッションで固め、それを隠すために膝掛けを掛けた。

幕が開き、節子さん、絵門ゆう子さん、俵萌子さんのトークショーが始まった。もし途中で節子さんが苦しくなれば、即座に退場する約束になっていた。

舞台袖にはペインコントロールのための麻酔科ドクター、綾子さん、会場で合流した節子さんの妹さん方々と私が、息を潜めるように節子さんを見守っていた。

いつ節子さんが、リミットのサインを出すか、それとも見ている私たちにも限界がそれと知れるか。節子さんの鎖骨近くには、点滴のためのチューブが刺さっていて、あのスカーフがそれをふわりと隠していた。

客席最前列の中央には、節子さんを見守るために駆けつけた、総一朗氏の姿があった。

そして、刻々と経つ時間のなかで、なんと節子さんは、1時間30分の対談を頑張り通し、あまつさえその後にロビーで行われる本のサイン会にまで出る、とまでいいだした。

幕が閉まり、私たちは節子さんに駆け寄った。当然ながら体力は限界をすでに超えているはずなのだ。

「本当にサイン会、出るの」

「大丈夫? ホントに?」

それぞれが口々に危ぶむのだが、節子さんはそんな周囲の困惑をよそに「大丈夫、できる」と繰り返す。私はふっと思いつき、

「節子さん、サイン会でるにしても、でないにしても、とにかく一度、横になって休もう。ねっ」

といって、搬送車の方にとにかく横にしてくださるようお願いした。節子さんも、さすがにそれを強く拒むことはしなかった。

私が考えたとおり、やはり節子さんはその後、再び座る、とは言い出さなかった。

サイン会には出ないままに、ストレッチャーに乗った節子さんは、そのまま再び搬送車の人となり、聖路加国際病院へと帰っていった。帰路は多くの方が節子さんに付き添っていたため、私は会場の裏口で、そのまま節子さんの乗った搬送車を見送った。


「刻が逝き過ぎても」インデックスへ戻る


このページのトップへ


Copyright © Miyoko Shiji All Right reserved.
当サイトに掲載している全ての内容はshiji.jpに属します。
その全て、あるいは一部を無断で使用・転載・引用することを禁じます。