どこまでも散歩道〜志治美世子ウェブサイト



いつでも会えるよね、節子さん(2)

4月には、「一喜会」の一周年会でもご一緒だった立命館大の高垣忠一郎さんにお招きいただき、節子さんと私はやはり一緒に、京都は円山公園の桜を見に出かけようと、約束していた。

しかし、3月に入ってしばらくすると、節子さんは腰の痛みから、車椅子に腰掛けることすらできなくなってしまった。

腰痛の原因は椎間板ヘルニアで、がんの転移自体の問題ではない、とのことだったので、私たちは残念がりながらも、「京都はいつ行っても素敵だからね」などといって、節子さんの腰痛が収まるのを待つことにした。

腰痛さえ収まれば、痛みさえとれれば、たとえ車椅子でだって、どこにでも出かけることができる。私たちは本当に、このときにはそう信じていたのだ。

そして、節子さんは再度入院した。それでも一時はかなり危険な状態だったものの、入院後は腰の痛み以外にはとりあえずの小康を得ていた。

私は何度となく病室を訪れた。

「今度という今度は本当に、一時は私も総一朗も覚悟したのよ」

そういって笑う節子さんに、

「節子さん、私はどんなときだって、絶対に覚悟なんかしないからね」

内心の心細さを押し隠すように、私は強がりをいった。

しばしば病室を訪れながら、私たちの話すことは、節子さんの好きな、私も好きな歌舞伎や文楽のこと。かつて訪れて素敵だった場所や節子さんの病室に飾ってある仏像の写真についてのこと。好きな服の生地や、好みの絵や、おたがいの共通の知り合いのことや、ときにはちょっぴり仕事関連のグチ。あの山の新緑を見に行こう、その帰りにはあそこであれが食べられるよ。俵さんの赤城の美術館の蛍も見たいね。あそこにもここにも行きたいから、京都はいっそ紅葉のころがいいかな。

それはまるでお見舞いなどではなく、節子さんのところに遊びにいっているのと、何ら変わりはなかった。たとえ訪れるのは病室の枕元であっても、私は病気の節子さんを見舞ったのではなく、たまたま起きあがることのできない節子さんを、訪問していたに過ぎなかった。

がん雑誌の仕事を通して親しくなった私たちだったので、思い返せばこのころの時間が、私と節子さんにとって、一番近しい、親密な時間だったのだ。

そんなある日、節子さんがぽつりと言った。

「私ね、もうもとに戻ることはないんだろうって、わかっちゃった」

「えっ?」

「あのね、私がたとえ車椅子でもどこかに出かけていける日は、もう来ないんだろうって、それがわかったの」

私は耳を疑った。まさか、まさかそんなはずはない。節子さんは腰痛さえ取れれば、またどこにだって出かけられるはずだった。

「こんなになっちゃうってわかってれば、もっと志治さんといろんなところにいっとくんだったなぁ」

ウソだ! そんなはずはない! 私は心でそう強く否定しながら、節子さんの言葉がおそらくどうしようもなく真実なのだ、ということを、心のどこか小さな片隅で、認めないわけにはいかなかった。それだけ、節子さんから伝わってきた言葉は、透明で、静かな悲しみを含みつつ、そしてどこまでも怜悧だった。


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